@article{oai:kobe-c.repo.nii.ac.jp:00001994, author = {鵜野, ひろ子 and UNO, Hiroko}, issue = {2}, journal = {神戸女学院大学論集, KOBE COLLEGE STUDIES}, month = {Dec}, note = {P(論文), バーバラ・モスバーグはエミリ・ディキンスンの隠遁は当時の女性には参政権がないという社会に対する不満が原因だとしている。私はそれに同意するが、彼女の隠遁という選択には他にも様々な要因があり、社会に対する不満はその一つに過ぎない。また、彼女の社会に対する不満には参政権の他にも理由があると思われる。当論文ではその不満の一つ、日本を開国させようとしていた米国の外交政策について考察した。ディキンスンの教科書を見ると、日本の鎖国や文化についての記述が見られる。1850年代の新聞には日本の鎖国や日本の漁船の難破、日本近海で難破した米国の捕鯨船員の日本での取り扱い等についての記事がみられる。そして捕鯨業者や貿易業者の要請から、ダニエル・ウェブスターが日本の開国を奨励し、最終的にはペリー率いる日本遠征隊が派遣されることとなる。一方、彼女の父親は法律家であったが、ホイッグ党員でもあり、また中国貿易業者を親戚に持つ者として、ウェブスターを支持していた。それ故、そのような政治的な話題は彼女にとって身近なものであり、大いに興味を持っていたことが伺える。特にペリーの日本遠征の時期は父親が国会議員を務めた時期と重なり、日本遠征の情報が新聞だけでなく、父親を通して直接届いたはずである。また当時の新聞記事を見ると、日本遠征には布教という目的も含まれていたことがわかる。ディキンスンは宗教復興期に改宗できなかった者として、また自分の作品を編集者に無断で書き換えられ憤慨した経験を持つ者として、他国の方針を無視する米国の外交政策に違和感を覚えたのではないだろうか。一方、日本が鎖国とは言え、長崎を通してオランダや中国から必要な物資や情報を得て独自の文化を育てたという事実は、隠遁を望んでいた彼女にとって、一つの希望の光であったと思われる。その結果、日本が開国し条約批准のため米国に外交使節を派遣した1860年を境に、皮肉にも、彼女は選んだわずかの友人との文通や新聞・雑誌を通して外の世界を覗きながらという特異な隠遁生活に入っていったのである。故に彼女は日本の鎖国を手本としていたと言えるであろう。}, pages = {129--150}, title = {エミリ・ディキンスンの隠遁と日本}, volume = {58}, year = {2011}, yomi = {ウノ, ヒロコ} }